平野紫耀に垣間見る「帝王学」
アイドルには様々な形がある。
例えば、今や主流となっているAKBグループは「会いに行けるアイドル」というコンセプトを掲げている。
握手会というファンとのコミュニケーションの機会を設けることにより、ファン1人1人がアイドルと1:1で対話することが可能なのだ。
一方で、ジャニーズは「偶像」としてのアイドル像を貫いていると感じる。
もちろん、求められるキャラクターの変遷はある。たとえば、嵐のような「親近感」を持てるようなアイドルが人気を博すという時代の流れである。されど、やはり彼らと対話する機会はほとんど提供されず、SNSなどのツールももちろん使用せず、ファンとのコミュニケーションは基本的に"アイドルからの発信"という一方通行の色が強い。
私は、こちらの従来の形こそアイドルの真髄であると感じている。
アイドルが発信する情報を元に、我々はそれらを統合し、繋ぎ合わせ、想像し、自らの愛する「理想像」を構築する。
そこに私は、幸せを感じるからだ。
対話などにより違和感を感じたり、自らの仮説にもにた理想像を否定されたり、そういった機会が増えることは、具体性を増す一方で、余白を減らすことになる。
だから私は、こちらの想像の余地を存分に残してくれる、ジャニーズが好きだ。
そのジャニーズの応援をしていると、往々にして1人のアイドルと多勢のファンとの対話という場面に出会うことが多い。
だから私は、アイドルにはある程度の「帝王学の習得」が求められると感じている。
アイドルにとってファンは、必要不可欠な存在である。サービス業で言うところの「顧客」に近い。ファンがいてこその、アイドルだからだ。
ただ、そのファンの中で「贔屓」をすることは好まれない。サービスは平等に提供されるべきなのだ。好みの子を優遇するなどの私情を挟む行為は、非難の対象となる。そこには「嫉妬」などといった感情を誘発することを嫌う意味合いもあるのだろうか。だとすれば、ある意味で色恋の様相も呈している。
このように要求される「公平性」や「感情の平伏化」といった要素は、「帝王学」に通じている。
まず、一点目の「公平性」について。
ここに記載されているような、「皆に公平に、好悪に偏るべきでない」などといった部分に関しては、平野くんを応援して来て切に感じることが多い。
例えば、ファンサービス。
彼のファンサービスは基本的に、全体に対して行われることが多い。
もちろん、1人に対してファンサービスをすることがないわけではない。
しかし、その1人は"特定の"1人ではないのだ。まるで、ルーレットを回して決めたかのように、偶然その人に幸運が訪れる。
もちろん、平野くんの中にもファンの序列のようなものがあるのかも知れない。
ただ、その基準はいつも定性的で明瞭なものが多いようだ。(ex.ファン歴など。)彼の好み、などといった曖昧で主観によるもので決められることは、ほとんどないのではないかと思う。それに、年齢で人を差別することなく、老若男女に分け隔てなく接しているイメージがある。(データがあるわけではないので断言は避けておく。)
そして、ファンとの対話である。
彼がファンと対話する場面を何度か見たことがある。
例えば、EXシアターで行われていたサマステのMC。ファンとの距離も近く、ファンからの声に応ずることもあった。
ただ、そのような時でも彼は、自分の発言がその人だけに向けられるべきものではない、という自覚がある。
決して、1:1の対話ではなく、1から発されたものをキッカケとして全体と話をする。それが非常に巧い。
だれかファンの1人が質問するとする。まず彼がするのは、その質問内容をその場にいるファン全員に共有すること。次に、その質問に関わる基礎知識を提供し、聞き手側の理解を一様にする。(皆がその事実を同様に知っているわけではないことを彼は分かっている。)
そこから、丁寧に質問に答えはじめる。しかし、答えの中でも何か特定のものを勧めたり否定したりはしない。答えに窮する場合は、こちら側の意見を聞くなどして巧みにかわす。
彼は、非常に頭が良い。お勉強はしてこなかったようだが、それを超えて世を統べる才がある。
さらには、俯瞰で状況を判断することに長けている。
MC中に、メンバーが何か面白いことをしたとする。しかし、それが客席の一部にしか見えないという事態がたまに起こる。
そういう時に、見えていない側に回り込んで「こっち向いて見せて!」と声をあげるのが彼だ。
全体に満遍なく幸せが共有されるように、差が出てしまわないように、俯瞰して状況を見ることができる。
さらにこれには、素敵だなと思えるポイントがもう一点ある。
それは、彼自身が動いているという点である。
本来の目的は、お客さんみんなに見せてあげることにある。
しかし彼は、あちらにも見せてあげて、などという表現はしない。
自分がその見えていない側に溶け込み、「自分が見たいから、こちらにも向いて見せて」と持っていくのだ。なんて出来た人なんだろう…
話が逸れてしまったが、
このように、彼は何においても「公平性」を保つ。
次に「感情の平伏化」である。
これについては、これまでの彼のインタビュー記事を読んでいただきたい。
honeyの怒涛の映画誌ラッシュ時に、どの映画誌かで「どこかはぐらかされている印象を受ける」と言っている記者がいた。
まさしく、これだ。
彼は、自分に過度に干渉されることを好まないように感じる。
これ以上は入ってこないで、という線引きを感じる。それは、感情を読まれたくない、とも取れる。
あからさまに「ダメだ」と突き返すのではなく、サラリと交わしてしまう。聞きたい内容に対する明確な返答は受け取れないのに、質問者が傷つくことなく、そして不快に感じることもなく、気づいたら話の方向が変わっていたり、納得してしまっていたり。
非常に巧みに操ってゆく。
これも、人の上に立つものに必要な技術なのである。
これら二点を踏まえて、彼の振る舞いから帝王学が徹底的に叩き込まれていると感じる。
しかし一方で、本能的に知ってしまっていたのではないかと思っている自分もいる。
彼は生まれながらにして、「王」だったのだ。
ジャニーズに入ってからというもの、彼はKing of KansaiであるKinKan、Mr.KING、King&Prince、とずっとKingとして生きて来た。ジャニーさんから見て、彼は王者以外の何者でもないのであろう。
そこに私は、共感するとともに感動を覚える。
彼の根底にあるのは、「帝王学」だ。私は、彼を心から信頼している。彼が統べる国は、エネルギーに溢れているだけでなく、絶対に安泰だ。
だからずっと、夢を見させてほしい。
ずっと私の「虚像」であってほしい。