虚像を愛する

平野紫耀くんを応援しています。だいたい寝言。

変わりゆくもの、変わらないもの

今の紫耀くんは、私が好きになった紫耀くんではない。

 

いきなりこんなことを言うとまるで担降りブログかのようであるが、降りる気など毛頭ない。絶賛、平野担継続中である。

 

では、何故いきなりこんなことを言うのか。

きっかけは、紫耀くんが

「仕事はテキパキしたい方だ」

という発言を多々するようになったことだ。率直に「あれ?そんなアピールするなんて"意外"だな」という感想を抱いた。そして、意外だな、変わったなって何を基準にいってるんだろう?と考えたのだ。

 

私は、常に「今」の紫耀くんを見ようと心に決めている。これはジャニオタをする上での私のポリシーである。いつだって差し出される平野紫耀というコンテンツの全てに感動し、好きを積もらせてきた。

 

ただ先日、そうした思索の果てに「紫耀くんってもしかしてもしかするとめっちゃ変わったんかな?」なんて思うに至った。

そして、ふと。ふと思い返してみたのだ。

「私が堕ちた平野紫耀って、どんな人だったっけ?」

 

私が平野くんに転がり落ちた経緯については、ここでは詳細には触れない。

端的に言うと、きっかけはまいジャニだ。

「フワフワ天然なくせに発言に垣間見える圧倒的センス」「無意識の中にあるスター性」に私はみるみるうちに心惹かれた。

そして彼は、知れば知るほど、何かを意識したり、顕示することを避けていると感じるようになった。

欲しい言葉をくれるのに、求めているものを差し出してくれるのに、核心部分には触れてくれない、見せてくれない。

そんな彼がわたしは「奥ゆかしい」と思った。

お兄ちゃんたちに思いっきり可愛がられ、存分に甘え、そのくせパフォーマンスは一目置かれている。

どこか無邪気に見えて、一片の陰を見せる瞬間がある。目が離せない。何が彼をそこまで、切なく、儚げに見せるのだろうか。彼の過去に何があったのか。

知りたい。だけど、教えてはくれない。

想像を掻き立ててくる、堪らなくセクシーな人だと思っていた。

 

ところが冷静になって現状をみると、彼はすっかり大人になってしまった、と感じる。

置かれた立場や責任をしっかり自覚し、自分の未来を見据え、デビューという一線を強く意識していると感じることが増えた。

そして、どこか、人間味を帯びてきたと感じる。

それが寂しいとか嫌だと言うわけではない。頼もしく、仕事ができ、廉くんやカイちゃんを兄目線で見守っている。いつも優しく力強くファンを導いてくれる。そんな紫耀くんが、わたしは大好きだ。

ただ、ずーっと。ずーっと私は紫耀くんが好きだなぁと思い続けてきただけに、そんな大根底にある変化をこれまで意識することがなかったという事実に、いま驚いているのだ。気づけば、彼は関西弁も話さなくなっていた。それはそれは、とても自然に。いつからどのように話さなくなったかなんて、もう今となっては明確にはわからない。

おそらく、彼が変わるのと全く同じスピードで、私の「好き」も形を変えてきたのだろう。だから、相対速度はゼロ。「変わらないなぁ」と思い続けてきたというカラクリなのだろうと推察する。

 

考えてもみれば、彼が変わってきたことは至極"普通"なことだ。人間が、生物が生きていく上で変わらないなどあり得ない。

細胞は分裂を続け、エントロピーは増大し続ける。

人は学習し、考え方や生き様、纏う表情さえも変化して行くものだ。

それが10代〜20代の男性ともなれば、なおさら。

ただ、だからこそ。その移ろいゆく中に

「変わらないもの」

を見つけると、たまらなく愛おしくなるものなのだろう。

例えば、クセ。

例えば、字。

例えば、言葉。

例えば、視線。

 

ただふと、あの頃のトキメキをもう一度思い返したくて。忘れたくなくて。

好きになったばかりの時に感じていたキラキラした気持ちの高鳴りを、当時何度も聴いた曲を、また映像を見返してみるのだ。

そしてまた、好きが募る。

好きになった当初の煌きは、いつでも格別だ。

少し、「あの頃に戻りたい」と思う。

でも。

今はもう、あの頃の純度100%な気持ちではいられないのと同様に、当時の私は今のこんな親愛なる気持ちや愛着も伴った気持ちを味わうことなど一切なかったのだ。

いつ、どの段階にも、その時にしかない楽しみがある。

 

だからこそ、何時も、この瞬間を余すことなく楽しんでやる!という心意気を忘れずにいたい。