虚像を愛する

だいたい寝言

私は私が見たものしか知らない

なんの歌のタイトルだろうか、と思う。この記事のタイトルである。

何かポエムを読みたくなったわけでもないし、詠みたくなったからといって詠める才は残念ながら持ち合わせていない。

 

ただ、今日ふとそう思う場面に立ち会った。

 

今日、私事ではあるが、中学時代からの親友の結婚式に参列した。

大変和やかな中執り行われた式は、非常に温かく、そして愛に溢れた時間であった。

私は、この友人のことが大好きである。中学生の時からずっと、会うたびにふざけたことばかり言い合って、大きな声で笑いながら、共に成長した。大らかで優しいのに、芯が強い。高校生の時には、くだらない話をしたり、進路について相談したり。いつも優しく「きっとできるよ!」と励ましてくれた。

進学大学は異なったけれど、定期的に会っていろんな話をした。もちろん彼のことも。

そしてついに、そんな彼女の結婚式の日がやってきた。そこで、彼女の大学時代の友人による様々なムービーを見た。現在の職場の仲間たちと笑い合う姿を見た。

少し寂しいと思った。

そして気づく。

私が本当に知っていたのは、中高の6年間の彼女だけなのだと。

共有していた時間はたった6年間の思い出に過ぎない、と。

私が知らない間に、彼女が積み重ねてきた歴史がそこにはあって、

それをこうして知ることができる機会に恵まれたのだなぁ、と。

しかしながら、共に過ごした6年間は何物にも代えがたい、かけがえのない宝物であることに違いない。

 

これはもちろん他の誰にも当てはまることなのだと思った。

 

私は平野くんの語る言葉を聞いて、よく「平野くんらしい」と思う。

でもそれは、あくまで私がファンとして享受できる程度の情報から私が作り上げた「平野くん」らしいに過ぎない。

彼には彼の、積み重ねている歴史があって、それは私の知るところではない。

でも、ハピアイのパンフレットで東山さんがおっしゃっていた。

「今日君に出会うために、僕らの歴史を積み重ねてきた」

知らない過去や時間よりも、大切なのは目の前に見えている私の目に映る「事実」なのだ。

今日のように、少し寂しく感じてしまうことは、ファン活動においても私生活においても多々起こることだろうと思う。

だけど、私にとって大切なのは、私自身が感じていること。

それを再確認した1日であった。